1.1太平洋戦争が終わって80年
令和7(2025) 年8月には、太平洋戦争が終わってから80年になり、筆者の年齢も年末までには、なんと95歳になります。「鬼畜米英」に勝利することだけを念じ、「神国日本」が負けるはずがないと教育され、そう信じて全く疑うこともなかった戦争に負けるとは、当時14歳の中学2年生の筆者には全く考えられない結末でした。まさに、青天の霹靂現象で、バリバリの軍国少年が抱いていた将来の夢や希望が全て失われました。その後の半年間ほどは、呆然自失、ただ「流されるままに」時を過ごした思い出が残っています。
戦争を体験した人が1割 (10%) にも満たない現在の日本では、大多数の人たちは、戦争中に13,4 才だった我々中学生が、どのような学校生活を送っていたのかなど、全く想像もできないことだと思います。そこで、
この機会に戦争が終わった直前の我々中学生の生活の一端を記述して残すことにしました。
1.2 唯一戦争に勝利するための中学校進学
筆者の中学校入学は昭和19 (1944) 年4月で、都立の旧制5年間の工業学校の採鉱冶金科でした。普通学科ではなく、この学校を選んだ理由は、父親の希望もあってのことですが、筆者自身納得していました。日本が戦争に勝利することが当時唯一の目的でもあり、軍事力に必要な武器の生産には欠かすことのできない採鉱冶金技術の習得を経て、技師として働くことは、お国のために有意義な職業だと考えていました。
入学時のクラス編成について少し述べると、戦前の「学年学級編成制度」は廃止されていて、学校全体が軍隊に倣って各クラスは「小隊」と呼称されていました。戦前なら、各クラスにはクラスの諸々の世話をする「級長」とか「副級長」と呼ばれる生徒がクラス全員の選挙または担任教師によって決められていたのですが、この中学校では、昔の「級長は小隊長」、「副級長は副小隊長」と呼称するようになっていました。筆者自身も小学校4年生のときに級長になったことがありましたが、この戦時中の中学校で、それがどのように決められたのか全く定かではないのですが、「小隊長」に選ばれており、国防服の腕部に金筋2本の腕章を付けることが許されました。副小隊長には、金筋1本、クラスを4班に分けて各班長には銀筋1本の腕章が与えられました。クラスの人数は、入学写真で数えてみると39名でした。
当時、全国の中学校以上の学校には、大日本帝国陸軍軍人が配属されていて、我々の学校には、将校1名と下士官2名が配属されていました。
1年生担当の軍事教官は若い陸軍曹長殿で、その指導振りは、時には 「脅威、狂気的」でもありました。今にして思えば、太平洋各地の日本軍の劣勢が次第に明らかになり、教官の気持ちにも計り知れない焦燥感のようなものがあったのでしょう。
一例を挙げると、我々1年坊主が休み時間中に校庭で、庭球ボールで野球の真似事のように遊んでいたことがありました。それを、どこからともなく見ていた教官殿は、我々に近づいて来て、大きな声で 『貴様達は、敵国の遊びをしているのか!そのボールを持ってこい!』と大声で叫び、怒鳴り出しました。ボールを持っていた生徒が曹長殿にそれを手渡すと、そのボールを口に入れて、顔を大きく左右に振りながら、噛み千切ろうとしていました。
そのような教官ですから、軍事教練中の指導も凄まじい勢いがありました。ときには、我々1年生を青竹で殴ることもありました。何と、その青竹がバラバラになるほどの制裁を目の当たりにしたこともあります。とにかく、この教官担当の軍事教練は、最初から終わりまで、ひと時の気も抜けない、精神的に張りつめた緊張感を伴うものでした。
1.3上級生は上官
筆者が中学校に入学してから半年も経つと、学内は軍国主義一色どころか、学校そのものが「軍隊」になっていたと言っても過言ではありません。各教科を担当する教師の「存在価値」は、殆ど失われてしまい、特に学生の間の「上下関係」が顕著に表面に出てくるようになっていました。中学1年坊主の筆者にしてみれば、当時の学園がどうしてそのようになってしまったのか知る術はなかったのですが、当然の成り行きとして受け止めていました。
今にして思えば、筆者が中学校に入学した直前の昭和19 (1944) 年 3月には、「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」という法律が既に閣議決定され、翌年昭和20 (1945) 年4月に施行されており、学徒全員の軍需工場配置が決定されていたのです。最上級生の5年生は、筆者の入学時には、既に学校を離れて、学徒勤労動員として軍需工場で勤労奉仕に就いていたものと考えられます。学校に残っていたのは、4年生以下の生徒でした。
上級生が下級生の教室に、担任教師の許可も無く、自由に出入りするのは暗黙の特権だったようです。或る日の休み時間中に、4年生と思われる一人の上級生がいきなり教室に入って来たことがありました。筆者たち1年坊主の間に緊張感が走り、みんな席に着いて静かになったときに、その上級生は、『貴様達に質問があるので、答えろ』 と前置きしてから、『貴様達は、毎日何を考えて食事をしているか』『誰か答えろ』 と言うのです。
我々1年生には、どう答えてよいのか分からず、沈黙が続いていました。すると、上級生は、声を荒げて、『だれか答えてみろ!』 と言いま した。そこで、一人の生徒が 『お腹がすくから食べます』と答えると、『違う! ほかに!』 と言うので、他の生徒が 『生きるためです』と答えました。 すると、その上級生は、『貴様、前に出てこい!』 と大声で怒鳴り、激高して、前に出て来た、その生徒の顔面にビンタを張り、その後で、『全員、気を付け!恐れ多くも、我々臣民は、天皇陛下お一人に対し奉り、万世一系の皇運を扶翼するために食べるのだ。貴様ら、忘れるな!』 というような意味のことをスラスラと声高に述べていました。
上級生のことで忘れられない経験がもう1つあります。それは、ある日の放課後、我々3、4人の生徒が同じ方向に向かって帰宅するために下校するときの事でした。校門を離れて、ワイワイがやがや、何か話に夢中になって歩いていていたときのことです。前のほうから学校に向かって教練用の銃を肩にして、背中には軍隊の背嚢を着用した、4年生と思われる上級生が歩いて来たのですが、我々は横を向いて話に夢中になっていたので全く気付かなかったのです。 すぐ側に来るまで気が付かず、「時、既に遅し」でした。
当時は、学校の規則として、上級生に校外で会った場合には、下級生が一人で歩いている場合には、その上級生に対して無言で敬礼するだけでよいのですが、下級生が複数で歩いている場合には、その中の誰か一人が 『歩調取れ!』 と号令して、横を通るときに『敬礼!』 と言い、号令を掛けた者が敬礼をして、他の者たちは顔を上級生のほうに向けなければならないと教えられていました。
その完全武装の上級生は、後で判ったことですが、その日は、翌日に 富士山の裾野で実施される軍事教練参加のために学校に前夜から泊まることになっていたようです。軍事教練の武装で、気分はすっかり 「軍人」 になりきっていたのでしょう。『貴様ら、止まれ!』 と怒鳴り声を張り上げ、『そこに並べ!』 と命令していました。
我々が驚いて直立不動で立ち止まると、その上級生が近づいて来て、『貴様らの中で班長は誰だ!』と叫んでいました。筆者が『自分であります』と応えると、いきなりビンタを張られました。その上、『これからは、気をつけろ』と怒鳴られました。
1.4 中学校2年生で勤労奉仕動員
日本の勝利を信じて、戦力に寄与できるエンジニアを目指して工業学校採鉱冶金科に入学した年の数ヶ月は、 曲がりなりにも各科目の授業時間がありましたが、学校全体が次第に「軍事教練」一色の雰囲気に包まれてしまい、翌年4月には、学校そのもの が陸軍第一造兵廠の管轄下に置かれ、大きな講堂全体が 「学校工場」 になってしまい、我々2年生全員が動員されました。学校の授業は全く停止され、毎日工場で働くことになりました。
当時、中学2年生の私たちには、工場で作られている軍事機器がどの ようなものなのか詳しいことは把握できなったのですが、概略的には 「九二式無線電話機」と知らされていました。また、我々中学生が担当させられた作業は、ごく単純で、「流れ作業」の中のほんの一部で、簡単な 「ネジ止め」 のようなものでした。それでも、我々が製造過程の一端を担い、その器械が日本軍勝利のために戦場で役立つものと信じて、1台1台丁寧に、心を込めて作業していました。
学校工場での作業以外には、時折配属将校による教育があったことを記憶しています。その将校は、若い陸軍少尉でしたが、軍事教育の一環として、「軍歌」の指導などがあったことが記憶に残っています。時には、学校の屋上で大きな輪を組み、軍歌を合唱することもありました。その時に教えられた軍歌の1つで、今でも鮮明に残っているのですが、「八紘一宇」 と呼称されていた次のような歌詞のものでした。この歌は、私には 忘れることのできない 「戦時中の思い出」の1つで、戦争が終わって 「平和な時代」 になり、大学を卒業して務めていた職場の宴席などで、何度も「得意になって」 歌ったほど印象深いものでした。
この軍歌の歌詞は、全部ではないけれど、自分なりに今でも記憶に残っています。この際、記録に残す意味で、思い出せるだけを「順序不同」で次の通り記載しておきます。
「八紘一宇」の歌
赤い血潮で日の丸染めてよ 世界統一してみたいな。
ギャング絶えたるシカゴの街でよ 高く上がった鯉登りよ。
萬里の長城で小便すればよ ゴビの砂漠に虹が立つよ。
ヒマラヤ超えたるガンジス河でよ ワニが出てきてキスをするよ。
俺が死んだら三途の川でよ 鬼を集めて相撲取るよ。
1.5 神国日本の敗戦の日
日本とアメリカの戦争の「終戦の日」を迎えたのも、学校工場で働いていた2年生の時でした。昭和20 (1945) 年8月15日の水曜日の朝、いつものように学校工場に出勤すると、工場の上司から 『今日の正午に、大事なラジオ放送があるので、集まりなさい』 と通告されました。中学校2年生の我々にしても、戦争状態が悪化していることは承知していましたが、まさか、その放送を神国日本が米国との戦争に破れて 「ポツダム宣言」 を受諾する「玉音」放送とは全く考えてもいませんでした。
我々中学生学徒工員も、その日の正午前に講堂に集まり、正面の壇上に置かれたラジオの前に整列させられていました。やがて、正午の時報があり、あまり音声の良くないラジオから『只今から重大なる放送があります。全国聴取者の皆様ご起立願います』という意味のような放送が聞こえてきました。その後の放送文言は『天皇陛下におかせられましては』 という放送が聴き取れた後は、頭が真っ白になり、その後の文言は殆ど聞き取れませんでした。
我々日本人が、まして小学生、中学生が天皇陛下のお言葉を聴く機会など皆無で、それ以上に、「現人神 (あらひとがみ) であらせられる天皇陛下」 が我々と同じような日本語をお話になる筈がないと考えていたのが、当時の日本の子供だったと思います。少なくとも、当時の私自身は、勝手にそのように考えていました。
天皇陛下のお声が時折異常に高く、時折擦れたような響きがあったことだけは、鮮明に憶えていますが、漢語の使用が多いお言葉の内容は到底理解できませんでした。しかし、同じ講堂に集まっていた大勢の工員、エンジニア、軍関係の大人達には、玉音放送の内容がどうにか理解できていたようで、後ろの方から嗚咽のようなものが聞き取れました。
玉音放送が終わると、大人達からは殆ど発言がありませんでした。中には、茫然自失状態の人も見受けられ、我々中学生には、その場の事態を確実に把握、理解することはできませんでした。 そのうちに、大人の間から、我々中学生に向かって 『戦争が終わったんだ。家でも心配しているから、早く帰りなさい』 という人が いました。筆者が、この玉音(もともとは、ギョクインだが、一般的にはギョクオン)放送の内容を完全に把握できたのは、その後数年を経て高校に進学して、教師の説明を受けた時だったと記憶していますが、終戦時には、13歳、14歳の子供では、玉音放送の内容が理解できなかったのは当然のことでした。
いつも下校を一緒にしている数人の同級生が集まって話し合ったことを憶えています。 教師の指示も、工場の先輩工員の指示も無くなり、その日の工場勤務も無いようなので、皆の意見がそれ以上学校工場に残こらず、それぞれ帰宅しようということになりました。その時に、学校工場の在った2階の窓越しに外を見ると、工場の従業員と思われる数名の女性が反対側の建物の前に集まって、涙を拭っている様子。我々中学生の反応は『やっと戦争が終わって、皆ほっとしている』 という解釈でした。
我々数名の同級生が校門を離れて、5分程歩いていたときに、自転車に乗った中年の男の人に会いました。その人曰く、『日本は、戦争に負けたぞ。早く家に帰りなさい』 とのこと。その時点での我々愛国中学生の理解は、「戦争は終わったけれど、日本は負けていない」「神国日本が負ける筈がない」 というもので、そのおじさんの 「非国民的」 な発言は許し難く、誰が始めたのか、その男の人に食ってかかり、乗っていた自転車を蹴飛ばして転倒させてしまいました。『日本が負けるわけがあるか!』『そんなことを言うのは、誰でも許せない!』 と誰もが怒鳴りながら、その場から駈けて逃げ出しました。
家に帰ると、母と義姉が縁側に坐って深刻な、暗い表情で近所の人たちと話していました。その話を聞いていると、間もなくアメリカの兵隊が日本に上陸して来て、大人の男性は全て強制労働のために連行され、女性達も、別の場所に連行されるだろうとのこと。 それを避けるためには、どこか安全な山の中に逃げる場所を探さなければならないなどと、真剣に話し合っていました。
ちなみに、筆者が14歳になるのを待ちかねて応募していた「陸軍少年飛行兵」になる試験日は、確か8月21日だったと記憶していますが、8月15日で日米戦争が終わり、少年飛行兵になる夢は消えました。
1.6 進駐米軍の軍用トラック コンボイ
戦争が終わると、米軍の日本進駐がいち早く9月には始まっていました。筆者が住んでいた東京の西外れは、埼玉県朝霞のキャンプ ドレイク に進駐してきた米国陸軍第八軍団の将兵の通過地点になっていて、連日のように川越街道を軍用トラックが数台のコンボイを組んで通り過ぎるのを街道沿いに目撃することができました。戦時中の日本では見たこともない「大きくて」、その上、いかにも「頑丈な」トラックには、背の高い、 大きな体で、金髪のアメリカ兵たちが大勢乗っていて、沿道に集まってきた日本の子どもたちに向かって大きな声で何か言いながら、チョコレートやキャンディーを投げていました。
当時14歳で中学生だった筆者の周りには、近所の小さい小学生たちが大勢いて、アメリカ兵が投げてくるものを拾っていました。その「哀れな光景」を目の当たりにして、筆者は耐えられず、小さい子供達に『お前達は乞食じゃないぞ。そんなものを拾うな!』と怒鳴り、拾わせないようにしていたのを記憶しています。当時の日本の教育では、子供達にも「武士は食わねど高楊枝」などという教えが浸透していて、「サムライは、食べなくとも、食べた振りをして、口に楊枝を加えている」と教えられていました。
筆者の気持ちとしては、アメリカ兵に向かって『子供達に食べ物を投げないで』と言いたかったけれど、英語など話すことは全くできないので、子供たちに拾わせないようにすることしか方法がありませんでした。今にして思えば、戦時中物資が次第に不足してきて、当時の子供達は、今の子供たちが日常的に自由に食べられるチョコレートや菓子などを長い間食べることができなかったのですから、投げ与えられたものでも、拾って食べたかったのでしょう。菓子を拾った子供たちからは、それを取り上げるようなことはしなかったけれど、筆者には誰にも言えない「悔しさ」と「屈辱感」が残ったことだけは鮮明な記憶として残っています。
筆者が米軍の、いかにも頑丈で、大きなトラック編隊を目の当たりにして感じたことは、当時の日本のトラックとの、あまりにも大きい相違でした。当時の日本のトラックは、日本軍のトラックも含めて、アメリカの 軍用トラックとは比較にならないほど小さく、造りも「頑丈」とは言えないものでした。その上、終戦近くの時には、車のガソリンも不足しており、街にはバスもトラックも「木炭車」しか走っていなかったと記憶しています。木炭車とは、ガソリンの代わりに炭や薪を燃料にして走らせる車です。時には、力も弱く、坂などで故障する車もありました。
また、筆者が同時に感じたことは、トラックを例に挙げるまでもなく、その他いろいろな装備で、日米の差が大きいことでした。その他にも、 アメリカ軍のことを実際にあれこれ聞いたり、目の当たりにしたりして いるうちに、戦時中に叩き込まれた「精神教育」や「神国日本」の国力 にも、少しずつ疑念が湧いてきました。
1.7 中学校合併移転
戦争が終わると、筆者の「学校問題」にも、大きな転換がありました。第3学年度からは、前述の工業学校採鉱冶金科が三鷹化学工業学校と合併という、晴天の霹靂のような異変が起こり、その上、何故か最終的には、三鷹市ではなく、遠く離れた築地近くに在った京橋化学工業高校への通学ということになりました。その学校は、築地の川沿いの聖路加病院の斜め反対側に位置していた、校庭も狭いコンクリート張りの学校でした。あまりにも突然の出来事でもあり、何も考える時間もなく、転校を余儀なくされました。
突然、静かな、東京の西外れから電車で遠距離を通学することになって、当初はかなり戸惑いました。筆者の場合には、東武東上線大山駅から池袋に出て、山手線池袋駅から新橋まで10以上の駅があり、時間も30分以上掛かりました。新橋駅から学校までは徒歩で20分ほど掛かったと記憶しています。筆者が入学した北豊島工業学校への通学は、東上線で大山駅から中板橋駅までの一駅だったので、合併校への毎日1時間以上の電車通学は、時間的にも精神的にも慣れるまで一苦労しました。
その後、半年ほどは、あまり考えることもなく、京橋化学工業高校への通学を続けていましたが、筆者の採鉱冶金学に対する情熱が次第に失われていました。ただ1つ、日本国の戦争勝利のために役立ちたいという意志で入学した中学校教育でしたので、戦争が終わってしまうと、その目的が全く失われたように感じていました。戦後の混乱に流されるまま、目的も無く、冶金学や化学を学び、卒業してから「何をすれば良い」のか自問自答の日々が続いていたことを記憶しています。しかし、14, 5歳の筆者に、その答えがすぐに出せず、しばらくの間悩んでいたと思います。
そのうち、いつの間にか、筆者の気持ちの中で、英語を学習する意欲が湧いてきました。「何はともあれ、まずは英語学習」というような単純な考えだったと記憶しています。「戦争に負けたアメリカについて英語を通して、より良く理解してみたい」というような「漠然とした」考え方だったのでしょう。そう考えるようになると、専攻科目の冶金学や化学の授業にも全く集中できなくなり、授業中も講義を聴かずに、机の下に隠してあった英語の教科書を専ら読んでいたことを今でも鮮明に記憶しています。
また、この京橋化学工業学校では、筆者にとって幸運なことに、良い 英語教師との出会いにも恵まれました。お名前は「谷本先生」と朧げながら記憶にあり、確かではありませんが、早稲田大学教育学部英語英文科を卒業された若い英語教師が授業を担当されていました。他の英語教師とは違った「なめらかな」発音で教科書を読まれていたことが印象に残っています。この先生には、英語の授業で、かなり頻度高く当てられて教科書を音読したことを懐かしく覚えています。筆者のその後の英語学習には、「良いスタート」になった忘れられない高校英語教師でした。
学外でも、終戦後世の中が少しずつ落ち着いてくると、街の所々で個人的に「英語を教える人」が出てきました。戦時中では、英語を教える能力があっても、教えられなかった人たちが、英語を個人的に教えることで、少しでも収入を得たいと考えていた人も多かったと思います。簡単なチラシなどを近隣の町に配って学習者を募集するか、口コミ宣伝で集めるかなどで、近所の子供たちを対象にした「英語学習塾」があちらこちらに現れていました。筆者も、そのような個人英語学習塾に近所の友人と一緒に 毎週1度ほど、1ヶ月ぐらい通ったことを思い出します。何を習ったのか、学習がどのぐらい続いたのか、ほとんど記憶に残っていないのですが、何か基礎的な英語表現を習ったと思います。
ほかにも、学外の英語学習と言えば、池袋駅から歩いて10分ほどの距離のところに在る立教大学で行われた「英語講座」に参加したことが記憶に残っています。たぶん、近所の友人と一緒に参加したものと思いますが、その時の講師は立教大学の英語教育の先生だったと思いますが、お名前や経歴などに関しては全く記憶に残っていません。ただ、その先生の 講義で、「英語の単語の覚え方」には、日本語を利用する方法があると 教えられたのを懐かしく記憶しています。例えば、anniversary 「記念日」は「兄バッサリ」、not at all 「どういたしまして」が 「納豆屋通る」で覚えられるとのこと。この先生の講義の内容は全く覚えていないのに、この2つの単語の「覚え方」ということだけが記憶に残っています。15歳の筆者の終戦直後の英語学習とは、そのような程度でしたが、「学習したい」という意欲は常にあったと思います。
その後も、筆者の英語学習意欲は日毎に増していて、いつも英語学習のことが念頭にあったと思います。例えば、前述のように、毎日の通学には、片道1時間以上も掛かり、電車を乗り換えての通学でしたが、乗り換えの池袋駅の待ち時間の時などでも、進駐軍兵士を探しては、一所懸命 暗記して覚えた「限られた英語表現」を使って、積極的に話しかけるようにしていました。時には、自分の腕時計を外してポケットに入れておき、米兵に近づいて行き『あなたの時計では、今何時ですか』の意味の “What time do you have by your watch?” などと質問したことを覚えています。
1.8 カムカム英語との出会い
英語学習で忘れられない、画期的な出会いが昭和21 (1946) 年2月から始まったNHKの英会話番組「カムカム英語」でした。担当講師は平川 唯一先生という方で、テーマソングが軽妙な童謡「証城寺の狸囃子」の 英語替え歌で始まる英会話番組は毎夕6時から15分間放送されました。その時の我が家には、戦争中使っていた古い、頭の丸いラジオが一台残っていて、3畳の茶の間兼食堂の棚の上に載せてありました。そのラジオは相当古くて、音質も悪く、耳をラジオの直ぐそばに当てて聴かないと、聴き取りにくくなっていましたが、毎夕6時になるのを待ちかねて、カムカム英語が始まると、テーマソングを一緒に合唱しながら、踏み台の上に立って聞いていました。
筆者がカムカム英語を聴いて英会話を覚えようとしていたのは、何と 80年近くも前のことですが、古い、聞こえの悪いラジオから流れてきたテーマソングを今でも、一番だけは完全に覚えています。このテーマソングには1番と2番があったようですが、当時の筆者としては、実のところ、2番の歌詞があったことも記憶に残っていません。ちなみに、テーマソングがどのようなものだったのか、下記の通り掲載しておきます。作詞は平川先生ご自身で、作曲が中山晋平氏だったことは後で知りました。
Come, come everybody.
How do you do, and how are you?
Won't you have some candy
one and two and three, four, five?
Let's all sing a happy song.
Sing tra-la la la la.
Good-bye everybody.
Good night until tomorrow.
Monday, Tuesday, Wednesday,
Thursday, Friday, Saturday, Sunday.
Let's all come and meet again.
Singing tra-la la.
このテーマソングの「日本語訳」もあったようですが、当時は日本語に訳すまでもなく、毎日歌っているうちに、日本語の意味が自然に分かってきたと思います。歌の歌詞もごく簡単な日常表現なので、日本語で考える必要もなかったと記憶しています。
「カムカム英語」講座には、その日の内容が文字で印刷されたテキストがあったのか、全く記憶に残っていませんが、筆者としては、内容は全て平川先生がアメリカ英語の母国語話者と同じように英語を話す毎日の英会話表現の発音と日本語訳を聴いて「丸暗記」していたと思います。内容は、日常的に頻度高く使われている短い家庭的な会話表現で、繰り返し 発音してくれるので、筆者はそれらの会話表現を、全神経を集中して、「聴き覚えよう」としていました。
カムカム英語の平川先生の教え方も、学校英語のように、「品詞がどうの」、「名詞が何で」、「動詞を副詞が修飾する」などと教える「典型的な英語教師」が教えるようなものではなく、全てが会話表現で、文法の 説明など全く無いものでした。
これは、かなり後になって知り得た事実ですが、平川先生がいわゆる「英語教育」とは無縁で、学歴がアメリカのワシントン州立大学の「演劇学科専攻」の卒業で、卒業後はアメリカと日本で映画俳優としても活躍された方だったのが、この5年間も続いて、筆者も含めて戦後の多くの日本人の「英語学習の出発点」となったカムカム英語の成功に繋がったと思います。また、平川先生の経歴は、他にあまり例がなく、明治35 (1902) 年に岡山県で生まれ、高等小学校を終えて17歳のときに、父上が移民として渡っていたワシントン州のシアトル市に移り、18歳で小学校に入学、3年間で卒業し、その後、最終的にはワシントン州立大学を卒業とのこと。
ちなみに、平川先生には、筆者の少年時代の思い出の他にも、筆者の ハワイ州立大学在職時代に「個人的な思い出」があります。家内の母親で、私の義理の母が1970 (昭和45) 年から1972 (昭和47) 年の2年間 ハワイで一緒に暮らしていたときに、娘がまだ幼稚園生だったのですが、この「カムカム英語」のテーマソングの最初のところを歌って娘に教えていました。このテーマソングが日本中に如何に浸透していたかが分かる良い例です。義母に聞いてみると、「この歌」は義母が子供のときに住んでいた徳之島で、鹿児島で高校を終えた島のお兄ちゃんが帰ってきた時に教えてくれた歌だというのです。
当時、義母は既に75歳前後だったので、この歌を覚えたのは明治43 (1910) 年ということになってしまいます。その時に、私の懐かしい少年時代を思い出して、平川先生に、義母のエピソードを含めて、お手紙を差し上げましたところ、先生から折り返し「丁重なご返事」を頂き、「カムカム英語」のテーマソングはご自分で作詞されたこと、17歳で渡米されたことなどが書かれた、自筆のご返事を頂きました。
1.9 米国人軍属との出会い
「カムカム英語」が始まってから、どのぐらい経った時のことか定かな記憶が残っていないのですが、筆者の家の近所に日本の女性と結婚した米国の軍属が引っ越してきました。我が家から3軒ほど先の角を曲がって5軒ほど歩いたところに在った家で、それこそ目と鼻の先、徒歩1, 2分の距離でした。そのアメリカ人は、カリフォルニア州ロサンゼルス市生まれのスペイン系米国人で、明らかに20歳代のまだ若い、背の高い人でした。筆者との最初の出会いがどのようなことから始まったのか、今になっては全く記憶に残っていないのですが、とにかく知り合いになりました。
英語など、基礎的な挨拶ぐらいがせいぜいで、ほかには何も話せなかった筆者でしたが、最初は、物珍しさから、何度か会い、言葉を交わすようになりました。その後は、前述の「カムカム英語」がしばらくの間筆者の対話の基礎になったと記憶しています。その期間がどのぐらい続いたのかも覚えていませんが、筆者が毎日のように実行した、その米国人との 「対話練習」が続きました。それは、毎夕15分間のカムカム英語で、とにかく余計なことは考えずに、全神経を集中させて、平川先生の会話表現を「丸暗記」して、その後で直ぐ、その米国人が住んでいる家へ跳んで行き、玄関のところで、その日に覚えた「カムカム英語表現」を発話しました。相手に私が言っている英語が通じた時は「嬉しく」、通じなかった時には「がっかり」して帰宅したことを今でも記憶しています。
そのアメリカ軍属の名前はJohnny Rael と紹介され、私たちは「ジョニーさん」と呼んでいました。筆者には、最初の名前がJohnの愛称などということなどの知識もなく、家族名がRael というのは「何系」のアメリカ人なのかなど知る由もなく、ただジョニーさんと呼んでいました。家族名Rael も、ご本人が発音すると、「レオ」のように聞こえました。
当時、筆者がその人について知り得たことは、米国の軍属で、マッカーサー元帥が滞在した東京駅近くの日本郵船ビル内にあった連合軍総司令部の一部署に勤務していたということだけでした。その人が太平洋戦争中に陸軍に入隊して兵士として、戦争末期に太平洋のどこかに参戦し、終戦間もなく、「連合国軍最高司令官」ダグラス マッカーサー元帥に従って上陸したのではないかということでした。実のところ、筆者はそのような質問をしたこともなく、知ろうとも思っていませんでした。
毎日のように、夕方の6時15分過ぎに通ってくる15歳の中学生をどのように思っていたのか、ご本人のみ知ることですが、「英会話練習」がしばらくの間続いたと思います。その後、筆者とその米国軍人の関係は、日本人の奥さんの助けもあり、かなり親しくなっていきました。筆者が訪問していた時間は、6時15分過ぎですから、多くの家庭では「晩ご飯の時間」です。或る時から、その新婚夫婦は、筆者を晩ご飯に誘うようになりました。当時の筆者には「遠慮」などというカルチャーはなかったので、誘われるまま、上がり込んで一緒に晩ご飯を食べるようになっていました。
晩ご飯が終わると、トランプやボードゲームをして遊ぶことがよくありました。ジョニーさんにしても、「人懐こい」日本の少年を相手に夕食後しばらく遊ぶことは、新婚家庭とは謂え、「嫌なこと」ではなく、むしろ興味があったのではないかなどと、筆者は勝手に当時のことを思い出しています。筆者にとっては、後で考えると、そのように恵まれた「英語学習環境」に身をおけたことは幸いでした。「文法規則」などが先行した学校英語教育ではなく、英語の母国語話者と「遊び」を通して自然に英語が習得できたことは、その後の筆者の英語習得に大いに役立ったと思います。また、ジョニーさんが「一般アメリカ英語」(General American English) を話すカリフォルニア州ロサンゼルス市出身の人であったことも、筆者にとっては幸いなことでした。
今思えば、戦後日本人の間でも盛んに歌われた “You Are My Sunshine”
(あなたは私の太陽だ) という歌を筆者に教えてくれたのもジョニーさんでした。最初は、歌詞の意味もあまり理解できずに、ただ歌っていましたが、そのうちに次第に理解できるようになり、英会話表現の理解に役立ったことを今では懐かしく思い出します。しかし、この歌の歌詞の中に when skies are gray 「空が曇っているときに」という箇所があり、「空がなぜ複数形のskiesと表現されている」のか不思議に思ってい ました。英語の単数、複数形の「微妙な使い方」を漠然と意識したのも、この時が最初でした。この歌の1番は、その後もよく歌ったので、今でも明確に記憶しています。ことのついでに、下記の通り記述しておきます。
You are my sunshine
My only sunshine
You make me happy
When skies are gray
You never know, dear
How much I love you
Please don’t take
My sunshine away
その後も引き続き、ジョニーさんと奥さんの二人は、筆者をあたかも「実の弟」のように思ってくれて、親しく接してくれました。終戦直後で、日本では物資も不足していたし、例えば、野球をするにしても、革製のグローブなど手に入らず、家庭で作った布製のグローブを使っていました。それを見ていたジョニーさんは、アメリカ軍専用のBX (Base Exchange) 販売所とかで、新品の革製のグローブを買ってきてくれた時は、本当に驚きました。そのほかにも、当時の日本の市場では、買うことができなかった品物を、衣服を含めて買ってきてくれました。ある時、ジョニーさんから『自分には、君と同じ歳ぐらいの弟がアメリカにいるんだ。君を弟のように思える』というようなことを言われたことがあったのを思い出します。
筆者は、今になって思えば、新婚家庭のジョニーさんの家では、「常識はずれの待遇」を受けていたことが分かります。ある時には、就寝時間になっても「帰宅しようとしない」筆者に、ジョニーさんは、“Well, I think I shall go to bed now.” というような表現をしていました。筆者は、彼が助動詞に will ではなく、shall を使ったことが「不思議」で、なぜそのように表現しているのか、理解できず、彼が何か「気取った」言い方をしているとしか受け止めていませんでした。筆者が、英語表現では「どのような時にshall を使う」のかを理解したのは、その後かなり英語を習得してからのことでした。考えてみると、ジョニーさんは、15歳の日本人少年に「優しく」接してくれたアメリカ人だったことが今になってよく理解できます。
当時の私の学校生活に話を戻しますが、前述の通り、京橋化学工業高校に通っていたのですが、ジョニーさんの通勤場所が東京駅八重洲口から直ぐ近くの東京第一生命ビルに在った連合軍総司令部GHQで、私の新橋駅下車より1つ前の駅ですから、いつの間にか毎朝一緒に出かけるようになりました。当時の山手線のことをご存知の方にはお分かりのことですが、電車には「連合駐留軍専用車」というのが設けられていました。それは客車1輌の半分が駐留軍軍人及び軍属のために特別に指定されていて、数少ない駐留軍関係者は、いつでも座れるようになっていた「特権待遇」でした。
終戦後の混乱期には、日本国民の交通需要に対しての車両数も少なく、全国的にいつでも混雑していたのは当然のことで、特に人口が多い東京などの都市では、毎朝の通勤時は「大混雑」が長い間続いたことを記憶しています。そのような状況の時でも、連合軍兵士や軍属には「特権」が与えられていて、いつでも座席が確保されていました。筆者のジョニーさんとの通学は、我が家の近くの東武東上線大山駅から池袋駅まで、それに山手線の池袋駅から新橋駅までの通学は「進駐軍専用車」に乗り、学友や他の多くの日本人が「満員電車」で苦しんでいるのに、いつも「申し訳ない」気持ちで乗車していたことを記憶しています。
筆者の「駐留軍専用車」通学がどのぐらいの間続いたのか定かではないのですが、しばらくすると、突然ジョニーさんは毎朝の通勤用に「サイドカー付きのオートバイ」を買いました。その時からは、なんと毎朝「遠回り」して、私を京橋の学校まで送ってくれました。今になって考えても、ジョニーさんには大変お世話になったものです。
ジョニーさんとのご縁は、その後も、ますます近いものになり、筆者をあたかも「家族の一員」であるかのように扱ってくれ、学校から帰った夕方にも、かなりの頻度でお宅にお邪魔して、夕飯をご馳走になったり、ゲームをしたり、談笑したりの生活が続きました。学校で習う英語ではなく、「生活を通しての英語学習」は、筆者にとっては「母国語話者」と同様の環境で、遊びながら自然に、かなりの英語力が身についたと言えます。
その後、ジョニーさんは、日本での勤務を終えて米国へ帰国されたのですが、数年後筆者が大学3年生の時に再度米軍軍属として日本に戻って来ました。しかし、その勤務地は、東京ではなく、名古屋に駐留していた米国第5空軍でした。ジョニーさんとは、米国カリフォルニア州に帰国されてからも、筆者の「拙い英語」で大学1, 2年生のときにも文通を交わしていました。
筆者も現在では、齢94歳になり、自分の人生を振り返ってみると、その長い年月を通して特にお世話になって忘れることのできない人を何人か挙げることができます。これは、筆者自身に限らず、人間誰でも共通の事柄で、私たち一人ひとりが「人として成長し、変化していく」、つまり「人間形成」の時期には、特に何人かの先輩、知人に、通常の限度を超えて、お世話になる人がいて、大いに影響を受けることがあるのではないでしょうか。筆者にも、「人生の恩人」として決して忘れることのできない人が数人います。ジョニーさんは、私の人生で出会った「最初の恩人」と言える人です。
1.10 普通高校への転学と早稲田大学高等学院への受験
その後は、京橋化学工業高校での学習に身が入らず、日増しに、一日も早く「工業高校から普通校への転学」を考えるようになりました。筆者の考えでは、「普通高校なら、どこでもよい」から、とりあえず転校してしまおうと思い、誰にも相談することもなく、自宅から近距離の山手線駒込駅下車で通学できる本郷高校2年生に転入学することにしました。まさに、孔子曰く「吾十有五にして学に志す」の心境で「英語を勉強したい」という気持ちが強くなっていました。
この本郷高校での1年間の在学記憶は、何故か殆ど残っておらず、少しの間課外活動として野球部に席をおいたこと以外は、授業内容もあまり記憶に残っていません。その原因は、当該校には失礼ながら、筆者が最終的に通学したかった学校ではなく、「腰掛け的」なものだったかったからです。筆者が普通高校として転校したかった学校は、早稲田大学附属校の「早稲田学院高等学校」でした。早稲田高校は、物心ついた小さい頃から、「野球は早慶戦」、「学校は早稲田」と決めていたので、迷うこと なく選びました。
そこで、本郷高校2年在学の最終段階に入り、早稲田高校3年生への 転入学試験を受けることにしました。その時、誘い合ったわけでもない のに、偶然同級生の一人も、同じように早稲田高校への転入学を望んでいて、二人で一緒に受験することになりました。この受験では、筆者が生涯忘れることのできない「教訓」があり、その後の人生での「支え」にもなりました。
早稲田高校受験「顛末記」を簡単に残すと、その同級生と二人で筆記試験を受け、その合否結果が後日あったのですが、筆者は何故か、自分で観に行かず、その同級生に「結果発表」の確認依頼をしたのです。結果的には、筆者だけが合格していたのですが、その同級生は筆者に直接連絡してこないで、筆者の近所に住んでいた他の同級生に筆者が「合格した」ということを伝えるように依頼したとのこと。事情を知らない、その同級生が数日後に筆者の家へ来て「合格通知」を知らせてくれたのですが、「面接試験日」が既に過ぎていたのです。
早稲田高校転入学面接試験を受けられなかったことは、その後の筆者の人生で「大きな教訓」として残った出来事でした。高校教育の「締めくくり」として、転入学したかった早稲田学院高校にせっかく合格していながら、最後の面接試験が受けられなかった「悔しさ」は、その後長い間筆者の気持ちの中に残り、同時に「一生の教訓」になりました。この事は、誰を責めることもできない「出来事」で、筆者の「身から出た錆」のようなもので、ひとえに筆者の責任として受け止めなければならない「良い経験」でした。この時以来、筆者は、常に「大事なことは絶対に人頼みにしない」と自分自身に言い聞かせてきました。
その後、早稲田高校に転学できなかった筆者は、本郷高校の3学年には残らず退学しました。残り1年間で新制高校が卒業できるのですが、本郷高校に残る意思はありませんでした。しかし、意思が無いとは謂え、何か キッカケがなければ簡単に退学することはできなかったと思いますが、「捨てる神あれば、拾う神あり」で、偶然の機会で退学する理由がありました。それは、昼間は働いて夜間の定時制高校で最終学年を終えて、卒業するという方法でした。
1.11板橋区役所への野球部バッテリー就職
どのようなキッカケがあって高校2年終了で退学して、板橋区役所に 1年間勤務しながら定時制高校に通い新制高校を卒業するようになったのか、あまり詳しくは記憶に残っていないのですが、親切な隣人のお世話によるものでした。
この板橋区役所への臨時採用は、当時数名の雇用が必要だったようで、筆者は京橋化学工業高校の同級生で、戦時中の北豊島工業学校でも軍事 教練の教官の目を盗みながら時々一緒に野球をしていた同級生を「一緒に板橋区役所で働いて定時制高校を卒業しないか」と言って誘いました。 彼は子供の時から野球をしていて、速い球を投げることで有名な野球少年でした。筆者の野球歴は、彼ほどの技術はなく、戦前の小学校低学年の時に時折近所の子供たちと小学校の校庭で野球を楽しんでいた程度のものでしたが、中学校では、戦争中のことで野球部などなく、昼休みに遊び半分に野球の真似事をしていました。そんな時に、彼の「豪速球」をどうにか受けられる程度で、キャッチャーを務めたことが何度かありました。彼は、戦後京橋に移ってからも、学校の野球部でピッチャーとして活躍していました。
この同級生も、何故か私の誘いに乗り、京橋化学工業高校を2年で退学して板橋区役所で一緒に「野球のバッテリー就職」として働き始め、就職後の一年間は「仕事よりも野球」で過ごしたのが今では懐かしい思い出になって残っています。区役所での勤務は、私は「税務課」に配属され、 彼は2階のスポーツ関係の課に配属されました。昼間の勤務が終わると、グラウンドで野球の練習をしたり、日曜日には、時折他のチームと練習試合をしたりしたのを覚えています。区役所のチーム編成では、私はキャッチャーではなく、センターを守るようになっていました。それは、我々 バッテリーが採用された直ぐ後で、他の臨時採用の方で、元社会人野球のキャッチャーをしていた人がいたからです。その人がキャッチャーになり、私は1年間の板橋区役所生活では、センターを守り野球をしながら 過ごしました。
筆者は、最初から板橋区役所での勤務は1年間限りと決めていて、早稲田高校に筆記試験は合格していながら転校できなかった悔しさをバネにして、翌年には早稲田大学の教育学部の英語英文学科を受験し、合格しました。筆者の早稲田大学入学が決まった時には、同じ区役所に勤務されていた方が、日頃はお付き合いがなかったのですが、早大ご出身で、私のためにご自分が学生時代に被っていた貴重な「座布団帽子」を提供してくれました。
1.12 早稲田大学の4年間
大学では、英文学専攻ではなく、とにかく日常的に使える英語を習得して、学部卒業後は米国のどこかの大学に入学したいと思っていました。
英文学を専攻したのでは、英国の歴史や古い文学書を読む講義が多く、 現代的な英語、特にアメリカ英語の習得ができないのではないかなどと、漠然と考えていて、卒業後「高校英語教師」になる考えは全くなかったのですが、まだ設立されてから歴史も浅い「教育学部英語英文学科」専攻を選び、第25期生 (昭和25 (1950) 年3月に116名(昭和29年の卒業アルバムに掲載) 同期生と一緒に入学しました。学部長は佐々木八郎教授、学科主任は中西秀男教授でした。同じ卒業アルバムの学生住所録には70名の住所が記載されていますが、卒業した学生数を示しているのか定かではありません。
また、入学後に、アメリカ政府の予算に「占領地救済政府予算」(Government Appropriation for Relief In Occupied Areas) という制度がドイツと日本を対象にして、主に食料や医薬品援助のための救済資金が計上されており、米国政府による「民主教育」のために「留学生を1年間米国の大学に招く資金」が充当されていたことを知りました。この資金での米国留学は、旅費、学費、生活費の全てが支給されるというもので、 早大卒業後は、この留学制度試験に合格して留学の夢を果たすことを考え始めていました。この留学制度は「占領地救済政府予算」の英語名の頭文字GARIOAから 「ガリオア制度」と呼称されて、日本の大学生の間で知られていました。
筆者の早稲田大学入学試験ですが、事前には受験勉強などは全くしていませんでした。1年間の板橋区役所での臨時雇用期間中には、定時制高校3年生で、昼間働いて夜間の授業を受ける生活ですから、勉強に充てる時間は殆どありませんでした。しかし、筆者には内心「早稲田の入学試験」に対しては、「英語の勉強」は必要ないと考えていて、少しだけ日本史の復習をしたことを記憶しています。
日本の大学入試では、理系と文系では異なる入試科目が課せられていて、筆者のように文系希望の受験には数学が含まれておらず、英語が中心的な受験科目でした。筆者は、前述の通り、英語の学習はアメリカ人との日常的な交際に恵まれていて、英語を直接習得することができたことは、他の多くの受験生と比較すると、有利だったと言えます。英語の文法的な解釈は理解できないけれど、大学受験までには、かなりの英語表現を母国語話者から直接耳で聴いて憶え、身につけていたと思います。多くの日本の大学入試英語試験では、現在でもそうですが、一例を挙げると、「纏まった英語文の一部を削除して、その削除した部分を括弧 ( ) にして、 そこに元の適切な単語や語句を入れる」といったような問題が多く出題されていました。これらの括弧内に入れる語句が「前置詞」であったり、 他の特定の品詞であったりする訳ですが、筆者は、大学受験までには、 文法の説明はできなくても、日頃の米国人話者との会話を通して覚えた 英語表現から、出題された問題を読んで、括弧内に「どのような語句」を入れればよいのか、それとなく理解できました。米国人軍属のジョニーさんには感謝です。
1.13大学教育で最も影響を受けた学科目
筆者が大学入学前に受けた日本での英語教育では、「英作文」とは「日本語文を英語に訳す」というものでした。最初は、日本語の1文を英語で表現するということから始まり、長くても2、3文の日本語文を英語文に直すということを指していました。日本の大学入試にも、時折出題されているのがこの「英作文」です。その結果、今でも多くの日本人が「文」と「文章」を同一視して表現することが多いと言えます。また、多くの人が「段落に分けて作文する」ということはしておらず、日常会話と同じように、思いつくままに表記していると言えます。
矢吹先生の講義を受けているうちに、先生が教育畑から出ることなく 教職に就かれた方でないこと知り、先生の教え方に納得しました。先生は、広島県出身の方で、昭和6(1931)年に早稲田大学高等師範部英語英文学科を卒業され、日本交通公社 (Japan Travel Bureau) に入社され、出版局で英文編集の職務に就かれ、実践的に約20年の経験を積 まれた経歴の方でした。
先生が、そのJTBでの出版作業経験は「日本に居ながら外国留学して いるような経験」だったと述懐されていたことを思い出します。編集部には、複数の英米人が顧問として雇われていて、日常的に英文添削が受けられる環境だったとのこと。先生の著作物の中に、戦後いち早く、My Trip to America(「私のアメリカ旅行」)と題する単行本が出版されていますが、この本などは、先生が実際に「アメリカ旅行」をせずに、JTB出版部の資料を纏めてお書きになったものだと言えるでしょう。
私が早稲田で受けた矢吹先生の講義は、大学卒業後の私のアメリカでの大学院教育やその後の執筆活動の出発点、または基礎、になったと言っても過言ではありません。また、この英作文の規則は、学校教育での論文の執筆に限らず、日本語でも、日頃の手紙や社交文、単行本の執筆にも大いに役立ちました。矢吹先生の講義では、初めに「作文の構成規則」を教え、その後は、規則に基づいて「いろいろな課題」について授業時間内に作文するというものでした。
筆者は、大学入学前には、アメリカ人との実際の日常交際を通して、 当然「不完全ではあるが」曲がりなりにも「かなりの表現」を習得していたので、矢吹先生に教えて頂いた「作文規則」を守りながら作文することができました。「作文の内容」は別として、他の多くの学生の執筆速度と比較すると、「より長い作文」を時間内に書くことができたと自負しています。それだけに、この作文講義は、筆者の「最も好きな学科」だったと言えます。ちなみに、筆者が早稲田を卒業してから十年後にハワイ大学に日本語講師として三年間就任し、その後、2度目の就任後、矢吹先生が我が家に来られる機会があり、筆者の作文の枚数が他の学生と比較して「数倍も多かった」というようなことを当時中学生だった長男の英樹にお話になったことを長男から聞いたことがあります。その時先生は、「少々大袈裟に」長男に『君のお父さんは、他の学生が1ページ書くのに、5, 6ページも書けたよ』と仰ったそうです。
