ホームカミングデーに参加して③「原点回帰のために早稲田へ」

2010年10月、卒業後25年のホームカミングデーに出席する為、自分は何年か振りに早稲田のキャンパスに立っていた。当時40歳代だった自分は、「一度きりの人生を如何に過ごすか」との迷いがあり、原点回帰しようと早稲田に向かった。一人で母校に行くのも心細く、理工学部で共に学び、遊び、その後50歳代後半まで一緒に生きたY君に声を掛けた。広島出身で田舎者の自分は、大阪の下町で育ったY君と最初のクラスコンパで意気投合し、様々な場面でシンクロした。その後、Y君は都市銀行、自分は商社に就職したが、深い付き合いは続いた。ある日、深酒して終電に乗れず、歌舞伎町のカプセルホテルで夜を明かした後、二人は勤務する大手町に向かった。向かい合うC4とC5の出口の境目で、「本社が隣とは不思議だよな」と別れたのを昨日のように思い出す。

前回のホームカミングデーの12年後、コロナ禍で2年遅れて自分は早稲田に戻った。マラソン渡辺さんの所沢キャンパスにまつわる話は面白かったが、12年前、酷評に耐えたサッカー岡田さんの「人間、墜ちる途中は苦しいが、地獄着地後は踏ん張れる」の方が腹落ちした気がする。校歌は声出しなしだったが、思い切り三番迄腕を振った。今回もY君と一緒に早稲田に行きたかったが、2年前の9月、彼は帰らぬ人となり思いは叶わなかった。葬儀では泣くのはよそうと我慢していたが、最後のお別れで「早稲田の栄光」が流れた時は・・・。戸山キャンパスでの式典が終わり、理工学部の同期と早稲田通りを馬場に向いながらY君の話を沢山した。馬場の地下にある寂れた居酒屋で、学生時代はお金がなくて飲めなかった生ビールで乾杯した。その日の式典では校歌は歌えなかったが、自分の披露宴の大トリとして、早稲田大学校歌のエールをきってくれたのもY君だった。あの時の校歌の輝きは、一生忘れることができない。

Y君と一緒に応援した1985年春の早慶戦にて

木村和生 昭和61年理工卒・63年理工学研究科卒